死刑と国家への違和感

佐高 信

 自分は死刑になるような悪いことはしないから、死刑に賛成するという人もいるだろう。あるいは、そうした人が多いから死刑はなくならないのかもしれない。

 しかし、死刑は本当に自分と無縁なのか? 一九一〇年に大逆事件がでっちあげられ、天皇暗殺を企てたとして、幸徳秋水らが死刑になった。

 いまでは明らかになったが、これは時の国家によって仕組まれたものだった。この事件を知って以来、私は幸徳の側に自分を置くようになった。もちろん、そんな〝大物〟ではないが、幸徳と一緒に国家によって殺された人の中には、自分がそんな事件に巻き込まれて死刑になるとは夢にも思わなかった人が少なくない。

 それは明治時代のことではないかと言う人がいたら、では、オウム真理教の事件に関連して、長野県の松本に住む河野義行が犯人扱いされた一件はどうか、と問い直したい。

 警察もメディアも完全に河野を犯人と決めつけて追いつめていった。河野でなかったら、犯人とされ、あるいは死刑判決も下されていたかもしれない。死刑を、もしかしたら、自分にも降りかかるものとして考えられるかどうか。そこで、まず、賛否が分かれるだろう。

 死刑は国家による殺人だが、次に、国家という存在が信じられるかという話になる。

 安倍晋三や麻生太郎が唱える国家が信じられないものであることはハッキリしている。戦前、戦中のファシズム国家が信ずるに価しないことも明確である。では、それ以外の国家は信じられるのか。私は、信じられる国家などないと思う。だから、国家による殺人にイエスと言えないのである。

 EU(ヨーロッパ連合)には死刑制度をなくしていない国は入れない。だから、もし日本がヨーロッパに位置していても入れないのだが、やはり国家というものを全面的に信頼していないのだろう。

(2020年8月記)

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