4、当時の死刑囚処遇
いくつかのレポートを紹介しよう。
「死刑執行の日時は、死刑囚には知らされない。死の恐怖のあまり、脱獄を企てたり壁にアタマをぶつけて自殺を図る者がないとも限らないからだ。しかし大阪拘置所では、死刑囚の修養がよくできている場合、『刑の執行がある』と本人に知らせる。遺書を書いたり、家族と最後の面会をする余裕をあたえるためにだ。さすがに、このどたん場になって、見苦しく取乱す者は一人もいない。かえって刑の執行に立ち会う看守たちの方があわてて、落着きを失いがちなのも皮肉だ。死刑囚と家族との最後の面会––これだけは、ほんとうにはたで見るのも辛い。ある自動車強盗が処刑されたとき、面会に来た娘が『お父ちゃん肩をもみましょう』と、父親の後ろに回ってもみ始めた。黙ってもまれる父親はポロポロ泣いていた。僕も法記者をしていたころ、絞首台に向かう死刑囚の何人かを陰ながら見送ったことがある。あんなにさびしく、厳粛なものはない。看守にとりかこまれ、花束をかかえて、スタスタと急ぎ足に去っていく姿を見ると、『その死刑待った!』とさけびたい衝動にかられた。」(「愛は死の彼方に 日本でただ一人の女死刑囚」畑山博)
死刑執行の事前告知は一律に行われていたわけではないらしいことがこの文章からわかる。大阪拘置所だけだったかどうかはわからないが、大阪では「修養がよくできた」死刑囚には事前告知をしたという。また家族との面会も肩揉みができるくらいの状態だったこと、処刑場へ花を抱いて向かったこと、それを新聞記者が目撃できたことなど今では考えられないほど緩やかだったことがわかる。
次の引用は、無惨な話だ。
「洗礼ののち私はT・M君に指導課長立会いの上、単純な二つの質問をした。
『あなたは事件のあった夜その現場におったかどうか』」
『おりません』
『あなたは手をかけて殺人の罪を犯しているか、どうか』
『犯していません』
とキッパリ答えた。
キリスト者が神と牧師と指導課長の前に、牧師の問いに対する応答には全人格がかかっている。牧師はキリスト者の良心にかけても真相を求めねばならぬ。
私はいよいよ調査に乗り出し、彼の故郷に赴くこと二度、上京すること三度、力を尽くして真相を探った。処刑場において最後の聖餐式が行なわれ、同君は『天地の主なる父よ、処刑によっていよいよ世を去る時がきました。私は信仰を持って幸福でありました。冤罪死刑という残酷な死刑が、私限りでこの国になくなるように。死刑がこの国から廃止されるようにしていただきたい。父よ、彼らを赦したまえ。私の魂に御手を委ねます』と祈りを捧げた。(中略)彼は絞首台へ向けて歩みを踏み出した。その時、彼は私は目かくしは要りませんと落ち着いて係の人々に告げた。そして立つべき場所に立って従容として処刑についた。」(「ある教誨師の手記」桶田豊治・金城教会牧師、名古屋拘置所教誨師)
この人は冤罪を主張しながら執行されてしまうのである。あってはならないことだ。免田栄さんが見送った死刑囚にも何人も冤罪を主張していた人がいたと書いているが(『免田栄獄中ノート』インパクト出版会)、誤判による死刑は決して珍しいことではなかったと思われる。